市井ケンジロウの独り言

趣味で文学・音楽を創作している者です。

自死を思いとどまらせて感謝状というニュースに思うこと

 先日のニュースの話だが、他人の自死を思いとどまらせた人が警察から感謝状を贈られたという記事を読んだ。この手のニュースを見聞きするたびに、自分は妙な違和感を覚えてしまう。そもそも警察が感謝状を送ることや、それを受け取ろうと思う人の心情を自分は理解できない。自死志願者の気持ちを考えると、そんな感謝状のやりとりを行うことや、それを公にすることの無意味さや残酷さを想像できないのだろうか。


 「尊い命を救っていただいた」という警察署長の言葉が引っかかった。本当の意味での「救い」は、自死志願者当人がその後安定的に幸福な人生を歩んで「生きてて良かった」と思って初めて成し遂げられるのだから、まだ何も決まっていない段階で「自死を思いとどまらせたから救った→感謝状」などという流れは、茶番でしかない。簡単な想像を放棄して、意識的か無意識的か美談に仕立てる人間がいる限り、自死者の人数がゼロになることは絶対にないだろう。


 「悲しむ人がいっぱいいるよ」という救った人の言葉も紹介されていたが、至極残酷だと思う。悲しむ人が多くいたとしても、その悲しみ以上に当人は苦痛を味わっているのだから、そのような言葉は攻撃的な響きにすらなりうる。それに、現代社会は孤独化が進んでいて、そもそも悲しむ人が極端に減っているのが現状。もしも自死志願者が「悲しんでくれる人なんか私にはいない」と考えていたとしたら、結果は逆だったかもしれない。思いとどまったのは、現段階での結果論である。


 とはいえ、だからと言って「救うな」と自分は主張しているのではない。感謝状のやりとりを行う必要はないし、公にする必要もないと言っているのである。安直な美談化は誤った認識を社会に広めるだけだ。行政機関やマスコミはごく単純な想像力を放棄しているようにしか見えないのだが、残念ながら、この傾向は今後も加速するのだろう。心情の機微を表現する文学は、制度の実体上教育現場から遠ざけられる恐れがあり(現状、学校とりわけ国語の先生方が「文学国語」も今までどおり扱ってくれているのが、せめてもの救い)、一般生活上も読書離れが進んでいるから、繊細な感性や想像力は日本人からますます離れてゆく。「マジ」「ウザ」「キモ」のような浅薄な言葉ばかり使用する人が増えていった先にあるのは地獄だ。彼らが理解できるのは、予定調和やご都合主義の心情だけである。こんなことを自分がぼやいてみたって何も変わらないのが、何とも虚しい。