徒然的思索

アマチュア小説家。ここには評論やエッセイを記す予定です。

【書評】『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』竹内整一 著

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 「さようなら」あるいは「さよなら」という言葉を聞いて個人的に私が思い浮かべるのは、Mr.Childrenの『祈り~涙の軌道』やオフコースの『さよなら』のサビ、あるいは昔放送されていた日曜洋画劇場淀川長治氏が番組の締めで繰り返していたフレーズである。私はこの「さようなら」や「さよなら」、「さらば」のような言葉をただ単に別れの言葉として認識していたが、そうではないということが本書を読んで分かった。

 これらの言葉のうちで最も古いのは「さらば」という語である。「それならば」「それでは」の意味で、『竹取物語』にも用例がある。それが近世後期になると「さようならば」を経て「さようなら」が一般化したという。ふだん何気なくこれらの言葉を聞いているけれど、「それならば」という意味なのだということを意識するとだいぶ印象が変わってくる。

 著者の竹内氏はこの言葉を「古いことから新しいことへの訣別・確認・移行」と捉え、日本人独特の心のかまえだとしている。例として挙げられている『仰げば尊し』の「いざさらば」はたしかに象徴的である。卒業式の定番ソングとして長く親しまれているのは多くの日本人の心境にマッチするからだろう。

 こういう「古いことから新しいことへの訣別・確認・移行」というのはふだんの日常生活でも見られることを著者は例で示している。学校での「起立・礼・着席」や電車のアナウンスなどだ。これらは当たり前のように見えてかなり特殊な慣習であるらしい。たしかに「起立・礼・着席」は少なくとも西洋諸国では見られない習慣だろうし、海外の公共交通機関などでは丁寧なアナウンスはない。日本人が区切りを重視していることは間違いなさそうだ。

 本書ではこの「さらば」や「さようなら」を端緒として、日本人の死生観について古今の文化人の言葉を参考にしながら考察を広げている。もともとただの接続詞である「さらば」に精神上の作用が込められていくという歴史が興味深い。いつ訪れるかも分からない「さようなら」のためにも、この言葉について改めて考えるのは有意義だろう。それに、本書を読んでから好きなポップソングの「さようなら」を聞いてみると面白いかもしれない。

【読書録】『花まんま』(文春文庫)朱川湊人 著

第133回直木賞を受賞した本作は表題作含めて全6篇の短編を収録している。当記事では各作品の簡単な紹介と感想を記す。そのため、事前情報をいっさい避けたい方はブラウザバックを推奨する。ただし、物語の全容が分かるような記事にはしていないので、気が向いたらこのままご一読いただきたい(とはいえ、感想では物語の核心に触れる箇所もあるのでご注意)。

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トカビの夜

<作品紹介>
 東京から大阪の下町に越してきたユキオは朝鮮人の男の子チェンホと仲良くなる。二人を繋いだのはゴジラガメラといった怪獣の類だった。民族差別を受けているうえ、体に障害があるチェンホはほとんど外出ができない。そんなチェンホが、ある日ユキオの家を訪ねてきて……。

<感想>
 私は本作を『平成怪奇小説傑作集〈2〉』(東京創元社)というアンソロジーのなかで既に読んでいた。そのため、読み飛ばそうかと思っていたのだが、一行目に目を通したところ、気がつけば最後まで読み通していた。それくらい魅力的な作品である。
 当小説で最も印象的に感じたのは、ユキオが窓からトウガラシを外し、投げ捨てるシーンだ。チェンホを最後まで拒絶し続けた他の住民たちと違って、ユキオは心の障壁を取り除き、虚心坦懐に彼と接しようとした。いじめを傍観して一度は加害者側になったユキオが社会の圧力や空気の流れに抗って、他者を受け入れようとした、その心意気は当小説の神髄とも言えるだろう。出自の異なる他者を排除しようとする作用が強くなっている昨今、この小説を読む価値は奇しくも高くなっているように思う。一度読んだら一生を通じて忘れないであろう温もりを施してくれる傑作である。

 

妖精生物


<作品紹介>
 「せっちゃん」こと主人公の「私」は学校帰りにクラゲのような不思議な生物を買う。それは幸運を運んでくれるらしい。やがて父の会社に大介さんというハンサムな男が入社してきて……。
 
<感想>
 本作品群は切なくも心あたたまる話が多いのだが、本作は6篇のなかで唯一と言っていいほど陰鬱な内容である。上品な言い方ではないかもしれないが「胸糞悪い」という言葉がぴったり当てはまる。ある意味で最もホラーな作品だ。
 妖精生物はおそらく性欲や生殖機能の象徴だろう。主人公の「私」が妖精生物に触れることで得体の知れない快感を覚え始める描写には妙な生々しさがあった。成長に伴って身体が変化することに対して誰しもが一定の恐怖心と期待感を覚えることと思うが、あの感覚を私は思い出してしまった。
 また、当作品は家族制度に翻弄される女性の苦悩も提示しているように思う。主人公の母はまさに良妻賢母である。家事をこなし、介護をこなし、子育てをし、会社の人たちの世話までもする。が、臨界点に達してしまう。そのしわ寄せが息子ではなく娘の「私」に来るという点はあまりにも示唆的だ。
 最後の濁流のシーンも象徴的だった。それは男性の暴力的な性欲を示しているようにも読めるし、家族の破綻を示しているようにも読める。あるいは主人公たる「私」の破綻の象徴だろうか。
 こういう地獄が現実に繰り返されているかもしれないと考えると、背筋がぞっとする。

 

摩訶不思議


<作品紹介>
 主人公アキラの叔父に当たるツトムおっちゃんが転倒死する。葬儀の日、火葬場へ入ろうとする霊柩車がなぜだか動かなくなる。おっちゃんの霊の仕業だと皆が感じているなか、アキラはおっちゃんに愛人がいたことをカミングアウトして……。

<感想>
 こちらは打って変わってコメディテイストの話である。息抜きの感覚で読むことができる軽やかな秀作だ。
 ネタバレになってしまうので、詳しいことは言えないのだが、とにかくおっちゃんはモテる。無為徒食の身分でありながらモテる、といういわゆるヒモ男なのだ。こういうモテる系のヒモ男は実際にも結構存在するように思う。
 売れない作家のモテエピソードなんかもよく聞く。太宰治も作家として名を馳せる以前から非常にモテていたイメージがある。得てして、この手の人たちは死後も多くの人から愛されるらしい。私もそういう人間的魅力を身につけたいものだが、現実はトホホである……。

花まんま
<作品紹介>
 俊樹の妹フミ子は熱を出したのを機に人が変わったようになる。彼女にはどうやら生前の記憶があるらしく「繁田喜代美」という人物だったという。繁田家の住む彦根に行きたいので連れていってほしいとフミ子から頼まれた俊樹はしぶしぶ一緒に彦根へ出かけるが……。

<感想>
 生まれ変わりという題材を通して兄妹愛が描かれた秀作である。読後感に残る温もりとしては『トカビの夜』に近いものがあるかもしれない。
 兄貴としての俊樹の心の葛藤が見事に描写されている点が印象的だった。俊樹にとって妹のフミ子はかけがえのない存在であり、亡き父と懸命に働く母の愛娘である。俊樹は、フミ子の心がこちら側の家族から生前の繁田家の方へと離れていってしまうのを警戒しながらも、妹の願いを聞き入れ、その心に寄り添おうとする。繁田家の父とフミ子の中の喜代美が対面するシーンにおいて、兄としての葛藤が言葉や行動として一気に表出するのには胸を抉られるような切なさがあった。
 著者の朱川さんは心理描写が秀逸だ。ただ単に心理描写がうまいというのではなく、話の流れの中で、それを自然と描き上げている点が卓越している。小説を書く上で見倣いたい描き方だとつくづく思う。

 

送りん婆


<作品紹介>
 語り手の「私」みさ子が40年前に経験した話。みさ子の親の勤める会社の社長の母親は通称「送りん婆」という霊媒師のような仕事をしている。それは、生死の境をさまよっている人を苦しみから逃れさせるために呪文を唱えて死なせるというものだった。その送りん婆に気に入られたみさ子は勝手に弟子入りをさせられて……。

<感想>
 二人称による昔語りのスタイルの作品である。老人の昔語りという時点で既にノスタルジックな雰囲気が出ている。
 当作品は言霊をテーマにしているが、一方で社会的な問題も含ませているように思う。物語の核心ではないかもしれないが、安楽死の問題だ。生死の境をさまよいながら苦しんでいる人を安らかに死に至らせるという行為は、やはり安楽死問題そのものと言っていいだろう。ここで当問題に深く入るつもりはないが、こういう現実に議論される事柄に対し、呪文というファンタジーの要素を絡めて小説に仕立てている点が上手い。
 なお、この小説は送りん婆の人物造形も秀逸である。みさ子が「おばさん」と呼ぶ、送りん婆の最初の印象は相当に怖くてネガティブなものだ。ところが、読み進めるにしたがって、次第に憎めなくなってくる。そして最後にはすっかり好感を抱かせる。送りん婆という存在自体が古き時代そのものを象徴しているようで、作品全体に郷愁の雰囲気を漂わせている。

 

凍蝶


<作品紹介>
 ミチオは保育園の頃から周囲から差別され、孤独に過ごしている。小学校二年の頃、東京からマサヒロという転校生がやってきて仲良くなるが、やがてマサヒロ一家からも差別され、再び孤独になる。ある日、マサヒロは墓地に迷い込み、そこでミワさんという十八歳の美女と知り合う。彼女には小学生の弟がいるらしい。そんな彼女から冬を越す蝶の存在を教えられて……。

<感想>
 被差別部落出身の少年を主人公に据えた作品である。最初は仲良くしてくれるのに気がつけば周囲が離れていくという様子が描かれる。これは親による子どもへの吹聴によって起こることなのだろう。現実世界でも実際に起きている事象なのだと考えると寒気がする。
 ふと思い出したことだが、両親が結婚する際、父の一家(すなわち私からすれば祖父母)が母の家族の身辺調査をしたということを聞いたことがある。調査の結果、問題がなかったため、無事結婚できたと話していた。私はこの話を聞いて大変ショックを受けた。いつも優しくしていくれている父方の祖父母のことが一気に信用ならなくなった。純粋な愛ではなく、出自や血統の選別によって、我が一族が続いてきたのだとすれば、私は自分の家系を全否定したいと思った……。だいぶ話が逸れたが、何はともあれ、これ一件を考えてみても、前時代的な人たちがいかに血統を気にしているか、すなわち差別の対象を選んでいるかが窺い知れる。
 さて、東京から越してきたというだけで仲間外れの対象になったマサヒロ一家がしばらくしてミチオを差別し始めるという構図はあまりに皮肉だ。「弱い者たちが夕暮れさらに弱い者を叩く」というブルーハーツの『TRAIN TRAIN』の歌詞を思い起こさせる。SNSなどはその極致の領域だろう。
 最後のミワさんとの邂逅の場面はあまりに切ない。彼女は身を売って生活をしていることが分かるのだが、そうすることでしか生きられない人々への著者のあたたかい眼差しがこういうところから感じられる。森鴎外の小説でも感じられることだが、社会の仕組みや制度が必然的に劣悪な環境を生んでいるという問題意識が背景にあると思う。鴎外作品について芥川賞選考委員の平野啓一郎さんは「反自己責任論」という言葉で説明している。朱川さんの小説にはそれと近いあたたかい視点があると私は思う。

 

まとめ


 全6篇に共通しているのは過去の回想であるという構図だ。大人になった語り手が幼い頃の記憶を思い起こすという形式をとっている。この時間的な距離感が良い意味で物語の解像度をぼやけさせ、ノスタルジックな雰囲気を演出している。大阪の下町という限られた地域が舞台なのに、大阪に住んだことのない私に郷愁を感じさせるのだから不思議だ。むろん、それは著者の緻密な人物造形や心理描写の賜物である。
 この短編集は単なる感動譚ではない。当作品群には人間の持つ暗い「影」の部分が通底している。親しい人の死や喪失という要素が含まれ、さらに人種差別などの社会の醜い一面が自然と描かれる。時や状況に応じて人間は加害者にも被害者にもなる。このような目を背けがちな事実を著者は誠実に見据えて作品を描いている。読者はそこに自分自身の一部を見て、自分事のように当小説を読むのではないかと思う。
 懐かしさと同時に人間の暗部も照射する。そんな両義性が当作品群にはある。もしこの夏読みたい本をお探しの方には、ぜひおすすめしたい。いや、この夏と言わず、年間を通じておすすめしたい稀有な短編集だ。

『鬼滅の刃』の危うさ

 危うさと題している時点で、お察しの通り、幾分かネガティブな内容を含む。それゆえ、あまりそういう記事を読みたくない方はブラウザバックをした方が良いかもしれない。ただ、大前提として私はアンチではない。むしろファンである。発売日まもなくして原作最終巻を購入して読んだくらいのファンである。もちろん映画『劇場版「鬼滅の刃」無限城編』第一章は既に鑑賞した。圧倒的な映像美に終始興奮状態だった。純粋にエンターテイメントしては最高峰のものだと感じた。

 それでは、なぜ私は危うさを書こうとするのか。それは、『鬼滅の刃』を鑑賞しているとき、自分の興奮に危うさを感じる瞬間があるからだ。もし仮に子供の頃に『鬼滅の刃』を鑑賞したのであれば、そんな危うさを感じることもなく、平坦な心で作品を楽しむことができたのだろう。が、三十年以上生きていると、幸か不幸か「待った」をかけてくる自分が顔を出す。その「めんどくさい方の自分」に耳を傾けてみようと思って、ここに書いてみることとした。

 結論から先に言ってしまうと「組織の目的達成のために個人の心身が削られるのを美しいと感じる心の動き」に対して私は危うさを感じているのだと思う。
 鬼殺隊の目的は鬼を滅することである。究極的には、鬼の始祖たる鬼舞辻無惨を倒すことだ。ゆえに、組織全体としての目的達成のために、構成員の一人ひとりが身を粉にして戦うことが求められる。求められるとは言っても、彼らは自発的にしているし、アオイのように戦闘しないという選択肢も選べるようになっているから、強制というわけではない。
 とはいえ、少なくとも組織に属する以上は、その目的遂行のために全身全霊をもって奉仕しなければならない。鬼舞辻無惨を倒すという目的に向かって、隊士たちは毎日血の滲むような稽古をし、文字通り命をかけて鬼を倒さねばならない。
 ここで問題なのは、個人の痛みが黙殺されてしまうということだ。いや、黙殺されるというより、美化されるという方が正確かもしれない。最終目標に至るまでの過程として、個人の痛みは美化・正当化される。

 漫画というフィクション上の現象に、そんな神経質に反応するなんてくだらないと、お感じになることと思う。私もそう思う。明らかに考えすぎだ。しかし、やはり私は常々この漫画を読むときに、どこか引っかかる感じを覚え、またアニメや映画に興奮すればするほど、同時に寒気を覚えてしまうのだから、その違和感を無視することもできない。
 最終選別で多くの受験者が鬼の餌食になってきたことも、お館様が家族もろとも囮にして家を爆破したことも、しのぶさんが童磨戦に備えて自分の身に行なったことも――「鬼舞辻無惨を倒す」という至高の目的の前では、あらゆる犠牲が美しい物語に変換されてしまう。
 煉獄さんの扱いも象徴的だ。煉獄さんは猗窩座を倒せなかった。逃げられた。冷めた視点で言えば、彼は敗北した。ところが、精神上は勝利したかのように描かれている。その「誇り高き死」は炭治郎たちの成長を促す端緒となった。すなわち一人の人間の「死」が「誇り」として称賛され、仲間の士気向上の材料として消費されるというストーリーが、そこにある。これは冷静に考えればかなり残酷な過程だ。ところが、我々は一本の線の上で、この過程を捉えるとき、それを「美しい」と感じるらしい。

 こういう「全体奉仕ロマン」とでも言うべきものが作品の中だけで見られる現象ならば、なんの問題もない。しかし残念ながら、この「全体奉仕ロマン」は我が国のお家芸とも言える現象なのだ。ブラック企業における過労死や長時間労働、体育会系の部活の先輩による後輩へのいじめ、もっと言えば、戦前の軍国主義など。「企業の成長のため」「青春を謳歌するため」「大日本帝国の平和を守るため」のような美しい物語のもとで、幾多の個人が傷つき、疲弊し、最悪の場合、命を絶ってきた。日本社会に常々浮遊している窮屈な気配というのは、この「全体奉仕ロマン」への信仰に起因して起きているのではないかと私は思う。そして今や「全体奉仕ロマン」への信仰者は、先の参院選でも可視化されたようだ。

 『鬼滅の刃』が優れた作品であることは言うまでもない。繰り返すが、私もファンである。ただ、だからこそ物語の中で描かれる忍耐や自己犠牲に酔いしれることには慎重でありたい。
 物語の倫理観が現実生活に強い影響を与える可能性だってあるだろう。例えば、職場でパワハラやセクハラを受けている人が、逃げるという選択肢があるにもかかわらず、「いや、これに耐えてこそ立派な人間だ。鬼殺隊士を見倣って自分も頑張ろう」などと考えて、体を壊すまで働いてしまったら洒落にならない。
 あるいは、いわゆる「鬼滅キッズ」が学校でいじめにあったとき、逃げるべきなのに「隊士たちのように逞しく耐えよう」などと考えてしまい、最終的に取り返しのつかない結末を迎えてしまったら、それもまた洒落にならない。
 そして、このような忍耐や自己犠牲を善とする美意識は「耐えている者は偉い」という価値観を生むと共に「耐えられない者は怠け者だ」という価値観を生むことにもなる。結果として「耐えられない他者」を排除する作用にもなりうる。
 フィクションは現実を模倣し、現実もまたフィクションに模倣される。それゆえ、美しい自己犠牲の物語に酔いしれたとき、私たちは自分自身に問いかけてみる必要がありそうだ。
「その美しい物語が、他者を排除する刃になっていやしないか」と。

 なんて偉そうに言いつつ、既に続編が待ちきれない自分もいる……。

「日本すごい系」動画の流行を読み解く――切ない背景

 日本の文化を海外の人々が称賛するという形態のテレビ番組を数年前から目にするようになった。それに乗じてかYouTubeのようなネット上の動画でも、それと似た色のチャンネルが増えてきたように思う。いわゆる「日本すごい系」というジャンルである。この手の動画を見るたびに「またか」と思う。妙な違和感を覚える。そもそもなぜこういう番組が増えてきたのか。なぜ需要があるのか。その背景について、私なりに考察を試みたい。

 ひとつに、国際競争力の低下が関係していると思う。2024年の世界経済フォーラム(WEF)世界競争力ランキングで日本は38位だった(出典:WEF Global Competitiveness Report 2024)」。1989年から1992年までは一位だったことを考えると、ものすごい落差である。まさに「失われた30年」だ。最近、株式市場の流動性は高まってきているようだが、超高齢化社会が加速化するなかで将来に希望を見出すことはなかなか難しい。そういう不安を慰める道具として「日本すごい系」は都合よく機能する。

 他には、地域コミュニティの衰退も一因として考えられる。特に都市圏でこの傾向は顕著だ。隣人の顔を知らないという人さえいる。最小単位に細分化された個人は、自分の存在意義を見失いやすい。そこで便利なのがネットの世界である(これを書いているのも、そのためか……)。趣味を通してつながりを感じる人は多いが、趣味以上に簡単につながりを感じられる要素がある。それが「日本人である」という意識だ。この意識の共有によって孤独感を解消しようと試みる人が多くいるのは想像に難くない。「日本すごい系」は孤独な日本人を慰める作用を持つ。

 また、そういう個人としての無力感のために、「私」「僕」「俺」という自己意識を、国家や著名な日本人に同一化して、その価値を高めようとする心理も働いていると思う。個別化が進めば進むほど、「自分」という存在がちっぽけに感じられる。でも、それを認めたくない。だから「日本人」であることを誇りに思い、その美点を強調する。「大谷翔平すごい」という言葉は「日本すごい」という意味を含んで使用されている場合がほとんどであろう。「日本人として誇らしい」とコメントする人がよくいるのが何よりの証拠である(残念ながら「大谷翔平」という一個人が優れているという事実は「日本人」全体が優れているということを意味しない)。

 そして何より、ネットの存在が大きいのは言うまでもない。Xやその他掲示板などでは、偏ったものの見方を持った人々が互いに承認し合い、その考えをより強固にしている印象がある。YouTubeも例外ではない。おすすめ機能の作用も強力だ。「日本すごい系」動画を観た人には、関連動画として別の「日本すごい系」動画が次々と表示される。「褒められスパイラル」の底なし沼に、どんどんと嵌まっていく。そのうち、そこで得た情報が全てであるかのような錯覚に陥る。実際は、日本のポップカルチャーが好きで日本に留学に来て就職したのに、ハラスメントを受けて母国に帰る人も多くいる。大の親日家が日本嫌いになって帰るパターンも多いという。だが、そういう情報に多くの日本人は耳を傾けない。そもそも「おすすめ」に表示されない。

 以上、おおざっぱではあるが、「日本すごい系」がもてはやされる要因を考えてみた。

 そもそも「日本すごい」という考えは今に始まったことではない。明治以来の伝統とも言える。欧米に追い付け、追い越せ、脱亜論……。江戸時代は清や朝鮮と良好な関係を保っていたのに、明治になるや否や、廃仏毀釈のような運動まで起こる始末で、近隣諸国を蔑み始めた。そのくせ西洋に対してはおべっかを使う。近隣を蔑んで西洋を崇拝する意識の根強さは今も脈々と続いているように感じる。「日本すごい」系動画において、西洋人が多くインタビューに採用されるのが何よりの証拠だろう。

 ここからは私の持論になる(ここまでも全部持論だけれど……)。

 「日本は欧米から絶賛されている」と主張する人は、むしろ自国を卑下しているのではないか。本当に自国に誇りがあるのなら、わざわざヨーロッパやアメリカという比較対象を持ってくる必要はない。三島由紀夫のように堂々と胸を張っていれば良いはずである。「西洋圏という偉い存在からお墨付きをもらっている日本はすごい」という文脈を見るに、いかにも胡麻すり小役人的な卑屈さを感じてしまう。漱石の『坊っちゃん』で言えば、「赤シャツ」をことさらに持ち上げる「野だ」である。
 
 自国の長所を取り上げること自体がすなわち悪いことだとは思わないが、分かり切ったことをわざわざ強調したところで単なる自己満足に陥るのが関の山だ。海外との比較において日本の良さに改めて気づくのも結構だが、そのことによって得られるのは一時的な陶酔感である。否、一時的な陶酔感にとどまらず、偏狭な国粋主義・排外主義に走る人は多い。そういう人間が増えれば増えるほど、社会は閉塞感に覆われる。多様性も失なわれる(この「多様性」を否定しようとする人は非常に多い。だが、往々にして、そういう人間はやたら「自分らしく」と謳い、自分自身には「多様性」を認める。他人には「多様性」を認めないのに、自分にだけは例外的に認めるというのは、あまりに子どもじみていないか)。他者への寛容さを放棄すれば、やがては自分の首を絞めることになるのは言うまでもない。

 本当に日本社会を良くしたいと考えるならば、どうしたって欠点に目を向けなければならない。欠点を見つめるところから、是正案が生まれる。真の意味での「すごさ」とは、社会の歪みや違和感に対して目を向け、声を上げる勇気のことである。そのことにより、少しでも生きやすい社会を築くことが良識的な現代人の態度というものだろう(いや現代人というより古来この国の人は、こういう姿勢を持っていた。たとえば『徒然草』では兼好が皮肉たっぷりに大衆の熱狂ぶりを批判している。『竹取物語』ですら世俗に対する批判のにおいを強く漂わせている)。

 例えば、日本好きの外国人がハラスメントを受けたことにより日本嫌いになり母国に帰るという話はすでに述べた。「嫌なら出ていけ」と言う人がいるが、そういう姿勢は人道的に問題があるだけでなく、経済的な問題も誘発する。日本好きだった外国人が日本嫌いになるという状況を放置すれば、日本のコンテンツが売れなくなり、やがては大きな市場を失うことになる。たとえばアニメの分野で、海外の視聴者が減少すれば、採算がとれず、アニメ文化自体が消滅するかもしれない。それはすなわち文化の上でも経済の上でも日本が衰退するということを意味する。一見「愛国的」とされる言動が、得てして国を破滅に追いやることは歴史が証明している。

 『1984年』や『動物農場』の著者として知られるジョージ・オーウェルは「自由というのは何を置いても、みんなの聞きたくないことを語る権利ということなのだ」(ジョージ・オーウェル. 動物農場. 山形浩生訳. 早川書房, 2017, 174)と述べた。自国の欠点はまさに「みんなの聞きたくないこと」に当たるのかもしれない。が、「日本すごい」ばかりを繰り返し、自国の欠点から目を背けた先にあるのは、それこそオーウェルの描いたディストピア的世界かもしれない。

 「日本すごい」系チャンネルのなかに、もし良識ある運営者がいるのなら、「日本の良くないところを聞いてみた」のような動画を「日本すごい」系動画と同じくらいの比率でアップしてもらいたいと切に願う。日本の欠点を外国人に聞くことはきわめて有用だと私は考える。内側にいると見えない問題を、外からの視点で照らし出してもらう。我々が日頃感じている違和感や息苦しさが言語化され、可視化されるかもしれない。それはすなわち社会の歪みが解消される端緒となる可能性がある。見たくないものから目を背け続ける限り、我々はずっと同じ息苦しさの中に埋没することになるだろう。はたして、それで良いのか。今一度考えてみる必要がありそうだ。

面接官の相槌について

 新卒時の就活や転職活動のときのことを振り返ってみると、面接官で相槌を打たない人が結構いた。普段会話をするとき、多くの人は相槌を打つことと思う。相槌を打たない面接官は、それが面接の場であるという理由で、そうしているのだろうが、これはよくよく考えてみるとおかしい。面接とはいえ会話であるから、相槌を無くして緊張感を生むのは、合理的でない。会社で会話をするとき、まともな人間は相槌を打つのだから、面接でも日々のビジネスシーンを想定したコミュニケーションがなされるべきだ。相槌によって会話のリズムが決定されるのだから、それを敢えて不協和にするのは、全く建設的でない。緊張感には良し悪しがある。面接という場には、むろん良い緊張感が必要なわけであって、悪い緊張感を生むのは、単純に面接官が採用不採用を決定するという立場的な強さを悪用しているに過ぎない。こんな悪習はいい加減消滅してほしいものである。

自死を思いとどまらせて感謝状というニュースに思うこと

 先日のニュースの話だが、他人の自死を思いとどまらせた人が警察から感謝状を贈られたという記事を読んだ。この手のニュースを見聞きするたびに、自分は妙な違和感を覚えてしまう。そもそも警察が感謝状を送ることや、それを受け取ろうと思う人の心情を自分は理解できない。自死志願者の気持ちを考えると、そんな感謝状のやりとりを行うことや、それを公にすることの無意味さや残酷さを想像できないのだろうか。


 「尊い命を救っていただいた」という警察署長の言葉が引っかかった。本当の意味での「救い」は、自死志願者当人がその後安定的に幸福な人生を歩んで「生きてて良かった」と思って初めて成し遂げられるのだから、まだ何も決まっていない段階で「自死を思いとどまらせたから救った→感謝状」などという流れは、茶番でしかない。簡単な想像を放棄して、意識的か無意識的か美談に仕立てる人間がいる限り、自死者の人数がゼロになることは絶対にないだろう。


 「悲しむ人がいっぱいいるよ」という救った人の言葉も紹介されていたが、至極残酷だと思う。悲しむ人が多くいたとしても、その悲しみ以上に当人は苦痛を味わっているのだから、そのような言葉は攻撃的な響きにすらなりうる。それに、現代社会は孤独化が進んでいて、そもそも悲しむ人が極端に減っているのが現状。もしも自死志願者が「悲しんでくれる人なんか私にはいない」と考えていたとしたら、結果は逆だったかもしれない。思いとどまったのは、現段階での結果論である。


 とはいえ、だからと言って「救うな」と自分は主張しているのではない。感謝状のやりとりを行う必要はないし、公にする必要もないと言っているのである。安直な美談化は誤った認識を社会に広めるだけだ。行政機関やマスコミはごく単純な想像力を放棄しているようにしか見えないのだが、残念ながら、この傾向は今後も加速するのだろう。心情の機微を表現する文学は、制度の実体上教育現場から遠ざけられる恐れがあり(現状、学校とりわけ国語の先生方が「文学国語」も今までどおり扱ってくれているのが、せめてもの救い)、一般生活上も読書離れが進んでいるから、繊細な感性や想像力は日本人からますます離れてゆく。「マジ」「ウザ」「キモ」のような浅薄な言葉ばかり使用する人が増えていった先にあるのは地獄だ。彼らが理解できるのは、予定調和やご都合主義の心情だけである。こんなことを自分がぼやいてみたって何も変わらないのが、何とも虚しい。

すぐ感動して泣く人に対する違和感

 映画や音楽などを鑑賞するとすぐ感動して泣く人がいる。こういう人は「優しい」とか「感受性が豊か」とか言われがちだが、実際は単純に感情表現が豊かなだけだと思う。むしろ感受性が豊かな人間の代表格である芸術家に結構寡黙な人が多いということを考えると、何でもかんでも感動してしまう人は俗物っぽい印象すらある。


 それに、すぐ感動する系の人たちに対して自分は底知れぬ恐怖心を抱いてしまう。すぐ感動するということは「流されやすい」「移ろいやすい」ということでもある。例えばSNSで近隣諸国における反日デモを見ると、怒り狂って憎悪表現を平気で口にする人がいる。かと思えば、その近隣国の旅行者が現地の人に助けてもらったという投稿を見ると「なんだ、本当は良い人たちなんだ」と180度態度が変わったりする。と思いきや、その近隣国の有名人が領土問題について言及すると「やっぱりうざい」などと言って、差別発言のオンパレードとなることもある。


 真に優しく感受性が豊かな人間とは、その衝動的な感情を想像力と理性で制御できる人間ではあるまいか。そういう人間になるために、知見を広め、思考を深化させることが大事だと思うのだが、SNSの普及を見るにつけ、もう取り返しのつかない段階まで人類は来てしまったような気がする。すぐ感動する系人間は今後も増殖し続けるだろうし、その行く末にSF的なディストピアの世界が待っているとしたら、あまりに虚しい。