市井ケンジロウの独り言

趣味で文学・音楽を創作している者です。

児童文学マイナス文学的要素=ディズニー

 本日ディズニーが百周年らしい。自分は一昔前まではかなりのディズニー好きで、サンフランシスコのウォルト・ディズニー・ファミリー・ミュージアムに一人で訪れたこともあるほどだけれど、今やすっかりその熱も冷めてしまった。文学にのめり込むにつれて、夢や希望といったものを絶対視することの歪さや危険性に気づいたからと言えば良いのだろうか、端的に言ってしまえば、自分は無邪気さというものを無くしたのである。児童文学から文学的要素を無くしたら、まさにディズニー作品になる。子どもが現実を目の当たりにしたとき、そのギャップに戸惑う危険性を自分はどうしても感じてしまう。


 それに、最近の(なんていう言葉は使いたくないが)ディズニー作品が極端に通俗化した点も大きいかもしれない。ディズニーの根源はイマジネーションだと思うのだが、今のディズニーは、すっかりそれが欠如しているように感じられる。実写版リメイクとシリーズ化が多すぎる。マレフィセント(眠れる森の美女)、シンデレラ、美女と野獣、アラジン、ライオンキング、ムーラン、リトル・マーメイドのような作品の実写版映画が大量に生産され、トイストーリー、モンスターズインク、カーズ、シュガーラッシュ、アナと雪の女王は、シリーズ化されている。これは、創造の怠慢であるような気がしてしまう。元来のディズニー精神は、新しいものを想像し、そして、創造することだったはずだ。しかし、今はすっかり保守的になっている感がある。新しい物語を作ることに消極的になってしまっては、もはやウォルトのDNAは受け継がれていないのではないか。


 たしかCEOのボブ・アイガーが日本のテレビ番組で「ウォルトを尊敬するが、崇拝はしない」という趣旨の発言をしていて、自分はこれを肯定的に捉えていたけれど、今日のような、何でも合併吸収する商業路線を見るにつけ、もはや尊敬すらしていないのかもしれない。まあ尊敬する必要性もないのかもしれないが。


 というのも、少し話は逸れるが、ウォルトは実はかなり威圧的な性格で、今日の人権基準から言えば、相当問題のある人だったらしい。労働組合の組合員たちを一斉に解雇したこともあったようだし、そんなウォルトに愛想を尽かした初期からのアニメーターたちも一斉にディズニーから離れるという事態まで起きた(一時はミッキーマウスの生みの親アブ・アイワークスまで)。宇宙規模の天才にどこか危なっかしいところがあるのはどうやら本当らしい。自分は、子供の頃からウォルトのことを長いこと尊敬していたけれど、彼のことを知れば知るほど、どんどん心が離れていき、今や作品自体に対する興味もほとんど失ってしまった。


 とはいえ、世界規模の文化を創造した功績が偉業であることに変わりはない。それに、今でも自分はディズニーの音楽だけは大好きだから、今後も聴き続けることと思う。百周年記念の作品は一応観る予定ではあるが、十二月公開らしいから、そのときには心変わりしているかもしれない。